楽に生きるブログ

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「失敗は忘れていい反省はしなくていい」最近読んだ本で一番

私はkindle unlimitedで公開されている本は正直期待していないのですが、この本は当たりです。大当たり。めちゃくちゃいいことが書いてあります。些細なことでうじうじしてしまい、疲弊しているネガティブシンカーにかなりお勧めします。

 

内容は三際に渡って、「あなたは悪くない、反省などしなくて良い」というスタンスで進んでいきます。こんなにも無責任な本が過去にあっただろうか?というレベルで、ミスはしょうがないよ、忘れてねという姿勢を貫きます。過去の失敗など内省してどうなると言うのでしょうか。起きてしまったことはどうにもならないし、考えても仕方がない。「もしも」という可能性を考えてもどうにもならない。結果論なのです。現在は過去のベストの積み重ねです。

 

もしも失敗をしてしまい、「てめえどうしてくれるんだ!」という怒りを買ってしまったら、「すいません。」で終わりです。ドラえもんのタイムマシーンでもあれば別ですが、あとは何もできないし、やりようがないので謝ったら終了〜。

 

こういう風に考えていると、なんだか楽になりませんか?気張らずに、もっと楽に考えていいんです。人生は大変すぎる。ちょっとでも、一ミリでも楽になるに越したことはない。そのために本書がすごく効きます。

 

そして私が本書で最も惹かれたのは、どっちでも良いという姿勢です。私もそういう考え方をしているので、居心地が良いのでしょう。太ってても痩せててもいいし、貧乏でも金持ちでも良い。リア充(もう死語?)でもいいし非リア充でもでも良い。どっちでも良いのです。なれたらなれたでいいし、全部okだし、「そんなんじゃ許されないぞ!」と言っている方が許されない。

 

もっと楽に考え、生きましょう。楽すぎる!ということはないのです。

対人不安をなくすには慣れるしかない

人と会うのが苦痛で仕方ないという方は結構いるのではないかと思います。私などは、コンビニに行くのですら苦痛を感じます。お腹が空いているけれど、外に出て人に会うくらいなら我慢しようとするくらいです。食欲という原始的な欲求すら押さえ込むほどのエネルギー。凄まじいですね。

 

私はなんとなく外にいると不安になってしまうのですが、その不安が明確になっている人もいると思います。視線であったり、自分の体臭、人と会話するのが怖い出会ったりと、様々です。その対人恐怖症を治す方法なのですが、何冊か本を読んできて、ある決まったことが大抵書いてありました。「慣れ」です。

 

対人恐怖でパニクっている人というのは、脳がバグっている状態です。扁桃体が活発になっているという細かい能部位は置いておいて、バグっているのです。「やばい!やばい!」と狼狽して、何も考えれれなくなっています。

 

例えば人前で字を書くと震えてしまう書痙の人は、昔字を書いているところを見られて下手くそだとからかわれた記憶を持っているかもしれません。それがトラウマ的な記憶になり、人前で字を書くという状況全てで手が震え始めます。「また言われる!もう無理無理!!」とパニックになるのです。実際、字がきれいかどうかなんて読めればなんでも良いと考える人の方が多いのではないでしょうか。書道の先生でもない限り、そんなこと気にしないし読めればなんでも良い。

 

他の対人恐怖症状でも同じことが言えます。何かしらの恐怖体験が意識的に、もしくは無意識に想起されているのです。それを治すのが慣れというプロセスです。「あれ?意外と他人は自分のことなど目もくれていないのだな。」という風になるまで繰り返す。

 

まあそれをすのが一番難しいのだから、引きこもってしまったりするのですけどね。そこは精神科医に行って、精神薬を処方してもらい騙し騙しやっていくしかないのだと思います。以前私も精神科医に通って、薬を処方してもらっていましたが、途中から外に出たいという欲求すらなくなり、鬱っぽくもなくなったので勝手に少しずつ減薬して勝手に通院をやめました。別に不具合はないです。通院だってやめたかったらやめても良い。そんなもんです。

人と比べることで成長できる人とできない人

人間の根幹について思うのですが、常に競争したがる、比べたがる傾向があると思います。ホモサピエンスは社会的な動物ですから、常に他者との比較を行いたがる。自分の社会的な立ち位置を理解する本能的な理由からだと思われます。しかしそれが苦悩を招くというのは疑う余地がありません。アドラーは全ての悩みは人間関係から生まれる云々かんぬん言っていたように記憶していますから、多分そうです。

 

その他者比較をポジティブに生かせれば良いのですが、そうできない人種がいます。私がそうです。「他人より自分にはここが足りてないな、よし頑張ろう」と思えない。「あ〜人よりできない。無理無理やめてよ」とパニくり落ち込みます。

 

そういった傾向の人間は、もう他人とあまり関わらない方が良いのではないかと思います。関わらなければ、比較ができないのですから。人間というのは本当に些細なところまで他者比較を行いますよね。容姿から経歴、能力全てを他人と比べます。「私はこれで良いのだ!」と思えない。

 

読書の理解度で勝手に比較を行い、勝手に落ち込むということを私はよくやります。一回読んだだけなのにめちゃくちゃ丁寧に、正確に解説しているところを見ると自分の能力の低さに嫌気がさします。だからそういうのは見ない。

 

書評のブログも、動画チャンネルも見ません。そのほかの劣っているな〜というコンプレックスを刺激する物も徹底して見ません。視覚からも聴覚からも完全にシャットアウトします。

 

「そんなんじゃ成長できないよ!」という意見もあると思いますが、どうでも良いのではないでしょうか?成長なんてしなくてもいいし、心の平穏こそが一番の優先では?と思います。どうせ生きとし生けるものは確実にいつか死ぬのですから、あまり力んでも仕方ないのでは?まあ個人の自由なのですけれども。

怒りとは防衛反応であると理解する

私は人の「怒り」という感情がいちばん苦手です。喜怒哀楽の中で怒が一番苦手です。キレられると萎縮してしまうし、誰かが怒られているところを見ているのも非常にストレスです。怒りに対する過剰とも言える反応は、おそらく幼児期か何かで起きたトラウマか何かが、認知を歪ませているのだと思います。また、そういった人も私以外にも沢山いるのではないかと思います。

 

この苦手意識を少しでも薄めるためには、「怒り」というのは、「防衛反応」であると理解することです。例えば飲食店や路上でタバコの煙を過剰とも言える反応で嫌悪感を示し、時には怒り始める人いますが、これは生きるための防衛反応が働いていると考えられます。

 

昨今のコロナウィルスの被害の影響もあるのか、それがますます顕著に現れるでしょう。「副流煙が肺に入り混んで、免疫力が下がり、コロナで死ぬ!?」と瞬時に無意識の思考し、「俺を殺す気か!?生き残らなければ!!!」と激情します。生きるためです。タバコの煙などはよく考えれば1メートルでも離れてしまえばほぼ無害なはずです。それよりも町中を走っている車の排気ガスの方が空気中の内容量は多いし何倍も危険でしょう。

 

それでも感情的になった人はそんなことは考えません。「やばい死ぬ死ぬ!」という短絡思考に陥っているため、深く思考することができなくなっているためです。人間の脳とはその程度なのです。

 

車の運転でもその傾向は現れます。「煽られた!?攻撃されている!生きねば!!」と短絡思考でブチギレます。生きるための本能です。ただその運転手の癖で車間距離が狭いだけかもしれないのに、そういった思考は働かなくなります。危ない死ぬかも!?という考えが一瞬でもチラついたらもうダメです。ユーチューブか何かで見た、交通事故動画を脳が一瞬で想起し、アドレナリンがドバーッとでます。

 

怒りというのは防衛反応です。自分の怒りという感情も、「ああ今俺は生きようと必死なんだな」と俯瞰して考えれば良い。別に強盗にナイフを突きつけられているわけでもないのですから。

 

相手の怒りもそういう風に考えれば、ああ暴走しちゃってるなぁと、気の毒であるなと思ってあげれば良い。そうすればだいぶ気が楽になるはずです。

頑張ると死ぬ

頑張ると死にます。頑張るというのは、普通ではできないことを、精神力で無理やり体を動かしている状態です。普段の生活をしていて、頑張ったなぁとはなかなか思わないでしょう。「布団から出られて俺頑張ったな」「歯磨きできて頑張ったな」とは思わない。普段の生活から逸脱した負荷を感じて、ああ今頑張っているのだな。と体は感じます。

 

負荷を感じているというのはストレスを感じていると同義です。ストレスは万病の元と言われるように、ストレスを感じすぎると死にます。それが胃潰瘍なのか、癌なのか、自殺なのか、急性アルコール中毒なのかは知りませんが、とにかく死ぬのです。

 

そして人生は頑張るように設計されています。否が応でもストレスが常にかかるように設計されています。であれば余計な負荷がかかりそうなことはやらない、避けることが重要になります。生きているだけで負荷がかかっているのだから、もう十分なのです。適度なストレスは生きる上で重要。と言われますが、何もしなくてもストレスがかかっているので大丈夫。

 

「うわぁこれきっついなぁ、無理だろう」と思ったら逃げれば良い。面倒ごとに巻き込まれるなと予測したらやらなければ良い。とにかく戦わずに距離をとると、ストレスを感じにくくなります。つまり楽に生きることができるのです。

 

人によってストレス許容値は違いますから、ある人にとっては全く影響のないことでも、ある人にとっては死ぬ寸前のストレスかもしれません。例えば、私は一日中誰とも会わなくても余裕ですが、ある人にとっては拷問かもしれない。とてもとても耐えられない!と嫌がるかもしれません。

 

自分が「あーもう無理だな」と思うことから逃げればいいのです。人それぞれ、無理なことはあるでしょう。

 

 

やってもいいしやらなくてもいい

やることなすこと、いちいち気張る人って多いと思います。やるならちゃんとやらないと!?みたいな人です。私もそういう傾向があって、なかなか物事を実行できない性格でしたが、最近はどうでも良くなってきました。とにかく楽に生きよう生きようと考えてるので必然でしょうか。

 

ダイエット中なのにチョコレート食べちゃった。いいじゃん

勉強しなきゃいけないのに、一日中寝て食って終わった。いいじゃん

ブログ毎日に書けなかった。いいじゃん

仕事だるくてずる休みしちゃった。いいじゃん

学校だるくて休んじゃった。いいじゃん

貧乏で恥ずかしい。いいじゃん

 

なんでもいいじゃん。です。人間は完璧には作られてはいないので、そんなにやることやること全部ができるわけじゃない。40%くらいできたかな?くらいでいいのではないでしょうか。こういう考え方に怒りを覚える人というのは、その人自身が非常に責任感が強て完璧主義なのだと思います。

 

そういう人間は、他人にもその水準を求めるものです。「なんで俺だけがんばらなきゃいけないんだよ、お前もやれよ」といった心理でしょうか。「俺がやっとくから、あとは休んでていいよ。」とはならない。自分に非寛容な人は、他人にも非寛容だからです。

 

やってもやらなくてもどっちでも良い。やったらやったで良かったね。やらなくてもしょうがないね。できてもいいしできなくても良い。もっと楽に考えれば楽に生きられます。これはニヒリズムな投げやりではありません。よりよくもっと楽に生きるための知恵です。

 

 

スピリチュアルを信じると楽になる

スピリチュアルというと宗教臭くてむり。という風に感じる方が多いようですが、スピを信じるメリットがあります。未来へ希望が持てることです。もっと言うと絶望して自死する確率が減ります。

 

大抵の宗教観では、「信じると、もしくは良いことをすると天国に行けますよ」という死後の世界を信じさせ、死の恐怖を紛らわせるという視点が強いのですが、スピリチュアルは現世利益を追求しています。引き寄せの法則などは最たるもので、願うとなんでもかなうという考え方です。

 

理想の恋人を思い浮かべるといつかやってくるし、お金持ちの想像をしているといつか金持ちになれるよ、という言わば信仰です。今現在が辛い人に「あなたは受難のカルマを背負っているけど、今頑張れば生まれ変わったときすごいよ?天国いけるよ?」なんて言っても多分喜ばれないし、私なんかは勘弁してくれと、今この瞬間すごくしてくれと思ってしまいます。

 

そんなことよりも、「相対性理論がなんちゃらで、量子力学の観点からもあなたは望む結果を得られることは科学的にも証明されていますよ」と言われた方が嬉しいでしょう。希望が持てます。

 

アセンションだとか、精神レベルが宇宙人だとか言われても、嬉しくなっちゃう人もいると思います。現実世界で満たされていなくても、なんか宇宙から見たら自分ってすごいのか!?と自尊心も向上するからです。自分が嬉しくなるというのが重要で、何の根拠もなくても見えなくても、嬉しい楽しいと思えれば良いのです。

 

 

メンヘラなのか?多分

加藤諦三さんの「メンヘラの精神構造」という本を読みました。多分私自身がメンヘラです。本をめちゃくちゃ要約すると、

 

メンヘラはナルシストである

 

ナルシストは被害妄想が強い

 

ナルシストは少しの出来事でも被害を受けたと「本人は」感じるため、反撃や無関心で勝手に自己防衛し始める。

 

という内容です。メンヘラという人種は自己愛が非常に強いのですね。ナルシストと言うと、鏡を常に見ていて自分にうふふんと酔っているだけと言うイメージがありますが、本書では歪み肥大した自己愛という解釈だと思います。そして現に私はそれが強いという自覚があります。そういう人間は社会に対して、自分は手ぶらで歓迎されて当然だという態度を取る。例えば砂漠の水がカラカラの地域に行って、水を持っていくと歓迎されるでしょう。

 

しかしメンヘラは手ぶらで行って、歓迎されていないと感じると被害者意識を持つ。IT系の会社に入って、プログラミングがめちゃくちゃ上手い人は重宝され歓迎されるでしょう。ところがメンヘラは下手くそなのに会社に入って、何もできないくせに過大評価を受けようとします。本人の主観では十分プログラミングスキルがあると感じていても、客観的に会社側からしたら下手くそなのです。下手くそだから評価はされないし、歓迎もされない。

 

その事実を受け止め、評価を得たいと思うのであれば、普通の精神構造をした会社員はスキルアップを目指しますが、メンヘラ社員は座り込み「不当な評価しか得られていない。ハラスメントである」と決め込みます。

 

また、普通の人間であれば、「あれ?チクっとしたな?」という精神的な痛みのレベルでも、メンヘラには「ぎゃー!撃たれた!?逃げなきゃ!」という過剰とも言える反応を示します。本人にとっては過剰でもなんでもなく、めちゃくちゃ痛いのです。痛みの閾値がめちゃくちゃ低い。だから社会生活などうまくいくはずがない。

 

このような迷惑なメンヘラが日本にはたくさんいると加藤諦三さんは本書で指摘しています。自分のような異常に被害者意識の強い人間が跋扈していると考えると、気味が悪く感じます。あくまで私のような精神状態や態度は少数派だと思っていたからです。

 

また本書の終盤に、メンヘラ心理から脱却する方法論が書かれていますが、ちょっと難しい感じがします。まあできるようであれば試してみたら?という軽い気持ちでいいのではないでしょうか?あまり力んでも仕方がない。

パソコンのパスワードを忘れて焦った話

現在私が使用しているパソコンがアップル製品のmacでして、いつもはtouchIDという指紋認証でログインしています。いつもは指紋認証でさっとログインできるのに、なぜか今日はログインパスワードを要求してくる。久しぶりすぎて忘れちゃったなぁやばいなぁと思いつつも、パスワードを記録してある大学ノートを片手に入力しました。

 

まったくできない。パスワードのヒントから推測しても絶対に合っているはずなのに全然ログインできません。めちゃくちゃ焦りました。真夜中の深夜に「うわ〜やばいなぁ〜これきついよ〜」と焦りまくって独り言が止まらないニート

 

どんどん悪い方向に考えます。「サポートセンターに電話しなきゃダメかな?電話とか苦手でできね〜!初期化されて中身のデータ吹っ飛んだらどうしよう!?」だんだん焦りが強くなり、自分でもパニクってるのが理解できました。私は焦ると飲酒する癖があるので、めちゃくちゃ酒が飲みたくなる。

 

あと一歩で冷蔵庫までいくというところで踏みとどまり、別の端末でググりました。結果すぐ解決。電源を切り、command + Rキーで管理者モードみたいなのを開く方法でパスワードをリセットし、もっとわかりやすいものに変更。こんな簡単にパスワードの変更ができるなら、こんなのいちいち設定する必要あるのか?と考えつつも一安心。いやー本当に焦りました。

 

それと同時に、自分はめちゃくちゃイレギュラーの状況に弱いのだなという気づきにもなった。多分発達障害か何かあるのでしょうけど、わからないので対処のしようがないためこの問題については放置します。

 

結論:パスワードの設定は慎重に行ったほいが良い。

疲れていると悲観しすぎる

やればできる!みたいな自己啓発書を読みすぎたせいか、無限の精神力さえあればなんでもできる。という意味不明な価値観が私の中にあります。そのせいか寝ずに丸一日を読書なりブログを書くなりで過ごしたわけですが、やはり疲労は大敵だと実感しました。先のことや未来のことを悲観しやすくなります。

 

どういう風に悲観してしまったのかと説明しますと、私の学歴は中卒です。何をとち狂ったのか、大学でジェンダーの講義受けてみたいなぁと考え始めまして、自分の学歴では大学に行って講義が受けられないと絶望します。それでは治らず、これじゃあ世間に出てから学歴差別されてしまう!という被害妄想をおっ始めました。(実際二十代での中卒は1%ほどしかいないらしいのでたぶん差別されます)

 

そしてグーグルで「高卒認定 最短」と検索している途中でふと冷静になります。

 

「あれ?俺はそもそも大学に行く金がないし、高卒の勉強2回くらい挫折してんじゃん。同じ場所に何年も通うことがそもそもできないし、行けたとしても大学費をペイすることが不可能...やめよう。」

 

こんな感じのことがあり、改めて疲れって怖い。疲れと言うよりも睡眠不足かもしれませんが、おそらく脳内でセロトニンが足りていないのだと思います。セロトニンが脳内でドバドバ出ていると安心感や多幸感が生まれるそうです。ご飯を食べてお腹一杯になって安堵している状態がセロトニンが出ている状態です。

 

おそらくそれが疲れていてうまく出ていない。逆にノルアドレナリンなんかが出ているのかと推測しますが、どうでも良いのです。眠かったら寝て、疲れたら休もうねという話でした。

やる気がない時に有効な物

ずばりコーヒーとタバコ。カフェインでドーパミンを出して無理やり体を動かします。タバコに含まれるニコチンにも、ドーパミンを増やす作用があるのでやる気が出ます。多分これが一番安いし手軽にやる気を出す方法だと思います。(ちなみにドーパミンというのは行動を促す脳内ホルモンです。)

 

私は怠惰な人間なので、やる気を出さなければできないようなことは基本全部投げてしまうのですが、そういうことができない場面やそうしたくないこともたまにはあります。たまーにです。そういう時はめちゃくちゃ濃いコーヒーを一気飲みしてから、ストックがあればタバコも吸います。なければ別に吸いません。高いしね。

 

ドーパミンがでてきて、うお〜やる気が出てきたと感じたらすぐ行動します。グズグズしていると効果が切れてきて、またやる気がなくなってくるからです。追加でコーヒーを飲むと1杯目よりも効果が薄いし、なんか気持ち悪くなってぐったりするので一発勝負だと思ってください。また、この方法を慢性的に繰り返すと依存症になります。カフェイン依存症では、カフェインが切れるとひどい偏頭痛が起こり、酷く体調が悪くなります。(個人差あり)

 

タバコの依存症も部屋が黄ばんで臭くなるし、脳がサボってニコチンなしじゃドーパミンを出さなくなって余計にやる気がなくなり、金銭的にも負担になるし鬱っぽくなるのでおすすめしません。カフェインもニコチンも心臓に負担をかけるので、繰り返しすぎると多分死にます。医学に詳しくないので断言できませんが。

 

私はこの特別なドーパミンじゃぶじゃぶノウハウを使って部屋や風呂場の掃除をします。無職ニートなのでそれくらいしか必要にかられることはありません。有料級の情報だと思います(適当)

求めなければ楽に生きられる

欲望が多いと楽に生きることは実質不可能になります。欲望を叶えつつ楽に生きられる人といえば貴族や資産家の家に生まれた人間だけでしょう。普通かそれ以下の人間は、一軒家が欲しい、ペットが欲しい、高性能家電が欲しいと求めれば求めるほど楽さは遠のいていきます。

 

高性能家電で家事時間を減らしてもその浮いた時間分働くことになるし、家なんかをローンで買うと返済期間中は絶対労働服従宣言をしなければなりません。「なんか疲れちゃったから休んじゃお」という身軽さがなくなり、働かなくてはという重圧ばかりが募ることになります。楽に怠惰に生きたいのであれば、まずは欲を捨てるのが一番手っ取り早い。そんな消極的な生き方は嫌だ!というのであればたくさん働いて稼いで、たくさん物やサービスを買えばいい。そしてついでに私のことも養ってください。

 

現代ではローコストでたくさんの娯楽が楽しめますから、社会的なステータスさえ捨ててしまえば暇もしないし疲れることなどせずに毎日楽しめます。メルセデスベンツはいつまで経っても乗れないし、高級ブランド物も買えませんが、インターネット回線とそれに繋ぐデバイスさえあれば無料で色々なコンテンツを消費できる。YouTubeなどは主たるものでしょうが、それにプラスして月約1000円で大量の映画が見放題のネットフリックスのようなサービスもあります。(タダより高いものはない。広告などで余計な購買を煽られないように気を付けることが重要)

 

私はあまりそういう欲がないのですが、探せば似たような人が集まっているインターネット上の集まりみたいなのもあるでしょう。寂しくなったらそういうところにアクセスなり行くなりすればよいのです。インターネット廃人みたいな人がいて、夜でも昼でも何かしらコミュニケーションが取れるのではないでしょうか。知らないけれど。

 

しかし楽すぎて全く働かないという状況も飽きてくると思います。「楽になりたい!」から「また何かしてみようかな?」という欲求がうまれたら何かしらやってみればいいのです。楽になりたい。怠惰に生きたいと言う人はただ疲れてしまっているだけなのだと思います。社会からの要望はどんどん増えてくるし、どんどんつけ上がってくる。もうキャパシティー超えてるよ!という体からのサインです。

 

そうしたらもう一年か数年くらいは全てを諦めて、惰性で怠惰に過ごすといいです。友達も同僚も昇進したり結婚したりしてて、なんか知らない間に家とかおっ立ててるけど、まあいっかという気持ちで休むのです。無理をすると普通に人は死にますから、怠けてるくらいがちょうどいいのです。

劣等感がだんだん消えてくる

劣等感があると何をしてもうまくいかないように感じます。私が十代の頃は劣等感の塊で、恨み辛みを隠して生きるのが精一杯でした。(というかそこに脳にリソースを割きすぎて何もできない)二十代前半になり脳が発達したのか、はたまた本で学んできた情報が役に立っているのかはわかりませんがほとんど劣等感というものがほとんどなくなりました。原因は多分どっちも?だと思っています。

 

今十代の方はそのうちよくなるし、そうでない方も人と比べないことを意識的にするとよくなります。天上天下唯我独尊の境地に近づくということです。今まのままのあなたは最高だし、それでいい。もっとよくしようとしてもいいけど、しなくてもいい。どっち道自分には価値があり最高である。それを認めることが大事です。

 

しばらく世間と関わるのをやめるというのも良いと思います。私たち人間はどこに行っても他者と関わって生きていますから、どうしても比べてしまいます。意識することでそれを抑えることはできるが、全く比べないというのは無理なのです。

 

どうしても劣等感が辛いのであれば引きこもってしまえばいい。SNSも何もやらずに世間から距離を置き、ボーッとするなり何か趣味に興じるなりして、休むというのも良いと思います。私はそうしています。今でこそブログを書くという気力が沸いていますが、以前は全くなかった。SNSなんて絶対にやらないし、趣味のゲームでもオンラインはやらない。インターネットのコンセントを引っこ抜いて遊んでいました。オンラインですら人と関わることが苦痛だったのです。

 

引きこもり始めて最初の頃は「こんなことしていていいのか?友達や同世代に遅れを取っている」という焦燥感みたいなものが湧いてきますが、だんだん落ち着いてきます。

 

まあ人は人、自分は自分だしなという考え方に至ります。こういう考え方の方が安心できるし、社会と関わるべき姿勢として自然なのだと思います。もっとこういった姿勢を落とし込むためにも、社会からドロップアウトし、自分なりの正解を掴んで社会復帰を果たせた先駆者たちが書いた書籍を読み、自分なりの正解を探すのも良いと思います。

 

やってもいいしやらなくてもいい。everything is ok

 

 

自分の書いたブログを見直す苦痛

はてなブログを書き始めて数日、カテゴリに追加するという機能を知りました。見てくれる人にブログをより見やすくする便利機能なのですが、10記事くらい書いてきたのに全くそれを追加してこなかった。これではいけませんということで、カテゴリーに追加していくことに。

 

しかし一括追加というものができないらしく、一つ一つ入れていかなければならないようで難儀しました。今まで書いてきた自分の駄文を少しでも見る羽目になるからです。文の構成など全く考えずに、その場のテンションで書けるだけ書いてあとは公開ボタンを勢いで押してしまういわば排泄物のようなものなので、極力書いたものは見たくない。

 

トイレに行って、「わあ、こんな形と大きさのうんちが出たんだな!」なんて観察しているようなものなのでストレスを感じます。文章では起承転結が大事ですよと言われますが、そういうのが全くわからない。私は最終学歴は高校中退の中卒くんなのでそんなものは知らない。多分国語力がある程度ある人が読むと、非常にストレスを感じる文章であるというのは想像ができます。まあそういった苦情は来ませんし、コメントできないよう設定しているんですけどね。

 

ともかく、自分の書いてきた記事を少しでも、ほんの端っこでも見直すというのは非常にこっぱずかしい。穴があったら入りたいとはこのこと。次から記事を書くときはカテゴリーに追加したかどうかを確認してから公開します。あと文章の書き方ノウハウ本でも買って読んでみようかなぁ。

 

 

 

 

生きづらさの正体。共感の重要性、他者への興味

社会で生きていくことが難なくできる人間と、そうではない人間の二種類がいると思います。私は100%後者です。どこへ行ってもトラブルばかり起こすし、他人が敵対する魔法がかかっているのかな?というレベルで問題が発生します。

 

自分は自己愛性パーソナリティ障害なのでは?発達障害なのでは?と悩んできましたが、最近わかってきたことがあります。それは「社会性の欠如」です。別に難しい解釈など必要なく、単に自分以外の他人に対して興味が薄いという理解で大丈夫です。

 

例えば私の例を出すと、仕事の休憩時間に同僚の人が「昨日見たテレビで〜」と話しかけてきます。私は本当に誇張なしに心の底から興味がないので、その態度が滲み出ます。表情や仕草であったり、生返事を返してしまったりと、自分にそういう意図はないのに自然とそういう態度がでます。当然相手は打ち解けようと努力しているのに、冷たくあしらわれたと感じるため、なんだこの野郎!と憤慨します。

 

仕事中でも自分の仕事が終わるとさっさと帰ろうとします。「あれ?○○さんまだ仕事終わっていないな、手伝ってあげよう」というのがありません。終わっていないことに気づいた上で無視するというのは、ある種の攻撃でありまだ良い方です。私の場合は全く気づいていないし悪意がありません。

 

そのくせ、憤慨されたり攻撃されたりするとめちゃくちゃ過敏に反応します。他人には興味がないけど、自分のことには敏感だからです。

 

こういったことでうまく生きられていない人って案外多くいるのではないかと思います。要領が悪いというのもありますが、社会性が欠如していることが主なトラブルの原因ように感じます。

 

こんな態度ではとても社会で生きていけないし、山籠りでもして木の実を拾って食べる原始生活をする以外ありません。よりよく生きるためにはこの問題を克服しなければなりません。

 

と言っても私はこの問題を克服できているわけではないので、こうすれば治るよとう情報は持ち合わせていないのです。社会性に関係している脳内ホルモンであるオキシトシンが足りていないことやセロトニンが解決の鍵のようだということくらいです。じゃあどうすればその物質を脳味噌の中に出すんだよって話なのですが、全くわからない。

 

ただ言えるのは、他人に大して興味をもち、共感してあげるというプロセスが良好な人間関係を築き、生きづらさをある程度解消してくれるということだけです。